清里からのピクニックバスは混んでいたけれど、登山口に向かったのは一人だけ。シルバーウィークの最終日、あまり人気がないトレイルを選んではみたものの、うすら寂しいくらいにトレイルヘッドに一人。素敵なスタートだ。

県界尾根までとぼとぼと歩き始める。気の急いた草や木が夏山らしさを終え、秋の準備中。息があがると立ち止まっては、眼を閉じて深呼吸する。秋の香りがする。松なのか、樅なのか、栂なのか、なにかそういう針葉樹特有な芳ばしさ。
足もとの草や花、栂やダケカンバの形をなぞるように視線を移しては進む。山を歩く楽しみは、その頂きに集中しているわけじゃなくて、うっかり通り過ぎてし まいそうな、なんでもない道中に愉しみが埋まっているのに気が付いてからは、コースタイムより長く歩くのを目標にしている。なのに、やっぱり少し早く歩い てしまった。もったいない、もったいない。早食いはよくないので立ち止まると、遠くで風の音や鳥の声が聴こえた。両の耳に手をかざすと、とたんにふわっと 音場が拡がる。世界が三倍くらいに拡がったように新しい音が聴こえる。せせらぎ。さえずり。風が吹いて、針葉樹が擦れた時の音。いろいろな音が次から次へ と耳に飛び込んでくる。わたしの備え付けの耳が大きければ手を当てなくたって、もっと遠く、高くの風の音がわかるのに。ほんと残念。

自分の足音が邪魔にならないように、そっと足を運んで歩き続ける。
のんびりと歩いたつもりが大天狗に着くころには、うっすらと汗をかいていた。ここには首なしの天狗さまの石像が祀られている。天狗さまに化かされないよう に手を合わせてから、一休み。石像は今から170年くらい前に置かれたものだそうで、今はないはずの首から上には、誰かが頭に模した石を載せていた。天狗 さまの向かえに腰を下ろすと風が通り抜けて、すっと汗が引いた。一口、水を飲み、潰れかけたおにぎりを頬張る。しあわせだ。

あらためて地図を見ると、長野県と山梨県の県境は、文字通り八ヶ岳の東に延びる「県界」尾根の上に引かれている。県境は赤岳頂上小屋をくるっと巻いて、赤 岳からキレット経由で権現岳―編笠山を通り、小淵沢方面に南下する。山梨県は八ヶ岳連峰の右隅の一角を取った以外、あとは全部長野領だ。もっとがんばれ、 山梨。

アスレチックのようなハシゴとクサリ場がたくさん続いてようやっと、頂上小屋の裏に辿りつく。混んでいるし、ガスは地蔵岳まで迫りつつあるので、一息つい て頂上の赤獄山神社に手を合わせ、権現岳まで下ってしまう。赤岳の南面はカラカラと音を立てる石が山積みだ。県界尾根のように植生の豊かさはないけれど、 岩と紅葉を始めた地衣類を傾きかけた太陽が柔らかな色で染めていた。
権現岳の真下には「胎内くぐり」という岩のトンネルがあるらしい。いつも探すことなく通り過ぎてしまう。隣のギボシの石像といい、修験者の山の雰囲気が味 わえる。今日も冷たい風が吹いていて、権現からギボシにかけての岩場は煉獄みたいだ。(煉獄はキリスト教ですが…)

キレット小屋は大好きな山小屋だ。シンプルで無駄がない。湧水が近くにあるのも素敵だ。サイトは赤岳方面と清里方面が開けていて眺めが良い。水が美味しく て、景色が良かったら、あとは………ご飯とコーヒーが美味しかったら文句ない。そうだ、ご飯は大切だ。ご飯を炊くにはすこし早いから、まずはお茶の時間。 行動中はシャリバテを避けて甘いものを取らなかったので、ここで遠慮なく糖分をいただく。まずは温かくて甘いチャイとナッツ。ひひひ。お代りにコーヒーを 淹れてチョコレートをつまむ。


しあわせだ、もう、誰かに分けてあげたいくらいに心地よさが溢れている。携帯やスマホは家に置いてきた。本もない。ノーミュージック。時間も気にしない。夕陽に染まる雲、ひんやりとしてきた大気。それに温かい飲み物。
今日はたくさん美しいものを見た。明日も素敵なものを拾いあげるように山を歩けるなんて。端から端までわたしだけの愉しみ。秋の山は楽しい。