「MCT100km宮古セクションでとウルトラライト・ハイキングを堪能する(1)」

【宮古〜みちのく潮風トレイルのエッセンス】 三陸沿岸から福島まで1000kmの沿岸エリアに引かれた「みちのく潮風トレイル」はひと口に「ロングディスタンストレイル」という言葉は括れないほどの変化を味わる。北上高地と三陸の海が生み出した地形、そこから育まれる自然、人の営み、街並み、文化が豊かだ。  トレイル沿線は海の文化だけでに留まらず、すぐ西側には北上高地が海に攻め込もうとしていて「海のアルプス」と呼ばれるような山岳体験も堪能できる。   とりわけ宮古市の区間約100kmは、そのルート上で、北部の海岸段丘と南部のリアス海岸が切り替わり、南北に長い三陸特有の濃厚な自然体験を市内のみで堪能できる。  100kmのマルチデイ・ハイキングなら、毎日たっぷり歩いても3泊4日程。前後に移動を挟んで4泊5日で組むと余裕が出てきて、連休を利用して歩くには程よい行程だ。  全線を歩くなら、本や音楽、温かく滋養あふれるご飯を作るストーブなどが欲しくなるが、宮古市区間は沿線に商店もあり、水場も見つかりやすく、多くを担ぐ必要はない。何か困ったら宮古市街地まで三陸鉄道を使えば数十分だ。ULハイキングにうってつけの区間である。

【宮古100kmセクションを歩く】

〈岩泉小本~田老〉
宮古市街地で前夜泊をした朝イチからスタートできたのに、岩泉小本駅の待合室はあまりに心地がよく、昨夕から降り続いている雨が小降りになるのをのんびりと待つ。
本数は多くはないであろう近距離バスが駅前の停留所に着くたびに、バスの運転手さんは決められているかのように駅舎が併設されている役所の待合室に入ると、NHKの流れる大きなテレビに向かって何某かの小言を呟き、自販機でコーヒーを買い(必ずコーヒーだった)、知り合いを見つけては声をかけ、出発時刻になるとするりとバスに乗り込んで乗客を誰も乗せずに去ってゆく。ときおり運転手が二人になることもあったが、だいたい一人でいる時と同じことをして、NHKの番組に何かしら反応をしては、違う方面に向かってバスは去っていった。
そのうち若者が3人入ってきた。うち二人はトレランの格好をしていた。普段着の一人はゴール地点まで車で向かうらしい。
「切符売り場が閉まっているけれど、どうしたらいいのかな?」地元の人らしいイントネーションだったが、心配そうな声で仲間に訊いた。三陸鉄道(三鉄)の乗り方が分からない。乗車証明書をもらうのはこの辺りのバスと同じだけど、バスにも乗らないらしい。こんなに便利なのに残念。

そもそも朝はゆっくりとスタートがよろしい。明け方から歩き始められたら日の暮れるまで歩く必要はないというのに、みちのく潮風トレイルに至っては、どうも朝がしっかりと始まってから歩いてしまう。人々が動き出してからの時間は魅力だ。ハイカーたるわたしは演者であり、〈ひょこひょこと足を引きずって歩く〉存在を地元の人に見せて回りたいし、彼らの生活という舞台を眺めて歩く観客になりたいのだ。

高架の上を走る三鉄から眺めると、小本の町並みは山と海に囲まれたデルタ地形にぎゅっと敷き詰められていた。実際に歩いてみると、集落と沿岸に迫り出す山エリアは驚くほど近く、橋を渡り、鳥居を抜けると山に向かって登り始める。
海岸段丘の上のなだらかのところに町ができるか、海へのアプローチがしやすい、河川が海岸段丘を削り取ったところに町ができる。高低差は100mほどだが、その高さを上り下りするときに、わたしたちは数十万年の時をタイムスリップする。熊の鼻展望所を過ぎると、モシリュウの化石発見場所跡に出る。ほらきたことか、うっかり1億年のタイムリープをしてしまったではないか。
子供のおりから恐竜には関心もなく、昨今、急に羽毛が生えたりして少し裏切られてしまった感もあり、ふむと分かったふりをしながら、スッと通り過ぎる。そもそも旅の主役たる私よりも目立とうとする名所名跡や歴史的な登場人物、はたまた巨大なトカゲにはこの際、御免被りたい。

国道から茂師漁港に降りる階段手前でみちのく潮風トレイルの幟がはためいていた。「食べ処かなざわ」と手書きの看板が立ててあった。事前にもらっていた浄土ヶ浜ビジターセンター作成の地図を開くと『活魚 和風料理かなざわ』と書いてあった。外観の写真を遠くから撮っていると、ご主人らしき方が店からでくるのが見えた。会釈をして「トレイルの幟を撮らせて持っていました」と声をかける。
「前にも通ったでしょ?」と声を掛けられてしまった。(はて、冬に通ったけれど、見られていたのかしら)と悩む。
ご主人のかなざわさんは東京で長く仕事をされていて、Uターンで茂師に戻って料理屋さんをやられているという。暖簾に「十二社」と書いてあるのに気が付いた。「じゅうにそう」の由来について伺うと、「西新宿の十二社で割烹料理屋さんを開いていたんですよ」と言うので驚く。十二社を通る方南通りは実家のすぐそばであった。通りで遭遇していたに違いない。宮古の片隅で方南通りを語るのもトレイルマジックだ。
話しはやがて、柔道話しや草野球、鈴木善幸元首相の話しまで及ぶ。ああ、「ぜんこうさん」は山田町のご出身で、現在の岩手県立宮古水産高校の卒業生だったのか。

「店の中も見ていってよ」と誘っていただき、店内を拝見させていただく。カウンターと座敷がほど置く、お昼ならここでいただいてついでにコーラでも飲みつつ、昼寝してしまいたい。
商売に関係なく、生まれ故郷の茂師に来た人に地元の味を食べてもらいたいんだ。土地のものを食べるのが一番、その土地を知る近道でしょ?」とにこやかに話すかなざわさん。草野球のチームでも、試合の後はかなざわさんが料理を振る舞っていたそうだ。特に醤油味の焼きおにぎりが評判だと伺い、よだれが出る。
「今度は営業時間に食べにきてよ」また立ち寄る約束をして、歩き始める。

こうやって朝の開店準備にお忙しい時間なのに、歩く人に声を掛けていただけるのはありがたい。「おもてなし」と称して、街の人は色々なサービスを考えてくれるのはありがたいけれど、お話ししてくれることが一番のおもてなしだ。

 

〈みちのく潮風トレイルとハンモック〉

摂待の集落を目指す途中で静かな森を歩く。風もなく穏やかだった。軽食でも取りたいところ。しばらく見回しても森の中、座って休む場所はなかった。トレイルを少し外れ、森の中に入ると、程よい感覚と太さのスギを見つけた。ハンモックにちょうど良さそう。風も穏やかだった。森のソファの出来上がり。

みちのく潮風トレイルは、一度、山林に入ると、休憩に向いたベンチや倒木が多くはない。ときおり現れる展望台にベンチが設えてあるにはあるが、次の展望台までお腹は持ちそうもない。

三陸を歩くようになってから、山パートをじっくり堪能するために、バックパックの外側ポケットに入れられる程度の小型のハンモックを持ち歩くようになった。さんざん「ノンハモ(『ハンモックを持たぬ、地球の重力に魂を奪われた民』の意」だとアピールしておいて恐縮だが、「みちのく」にはとりわけ春~夏に掛けてハンモックは必須だ。座って休む場所のない上に、うっかり地べたで休むものなら、マダニとヒルが大集合なのだから。

昨年5月半ばにマダニに背中を喰われたのは、そう、宮古市の南部、重茂半島だ。翌日、宮古市の皮膚科に駆け込むと「今年はもう3人目だね。昔はマダニなんていなかったんだけどねぇ」と先生に驚かれてしまった。ちょうどその日は誕生日で、まさかマダニと誕生日を迎えると思わなかった。祝福あれ。「マダニに喰われたくなければ、ハンモックに限る」

 

摂待の集落を抜ける。町の人は午前中の時間を、野良仕事や家事仕事に追われていた。挨拶しながら、商店に向かい、午後分の行動食にと菓子パンを買い、摂待駅前へと向かう。ガソリンスタンドでも補給ができるが、今日はお休みだった。ああ、今日は日曜日だった。

摂待駅前には自動販売機数台と割と大きなトイレがあった。無人販売所が駅の広場の向かいに設置されていたが、文字通りの無人であるばかりか、商品もなかった。無商品・無人・無販売。
一通り駅前を偵察して、自販機で悩みに悩んで微糖のコーヒーを買い求め、駅舎に続く階段に腰をおろしてひと休み。

平日の朝なら学校に通う子供たちを送迎する車が来るだろうか。日曜日の駅周辺は静かで、誰にも声を掛けられることもない。 駅周辺が賑やかなのは都会の幻影のようなもので、ひとたび都市部を外れてしまうと、自転車置場と自販機くらいしかない。駅というのは町と外部とを繋ぐ緩衝地帯であり、他所者には随分と居心地が良い。町中で休む場所がないハイカーには程よい放置感がたまらなかった。

摂待駅から林道に入り愉快に歩くと、トレイルは水沢の集落に入る。商店も自販機もない集落だが、不思議と雰囲気が心地よかった。

水沢地区には学校跡が町中に大事に保存されていた。ブロック塀で組み立てられた構造に、アルミの窓枠をつけたシンプルな建物で、そのシンプルさは宿泊するのにちょうど良い。庭もテントにうってつけだ。カラフルなテントやレインウェアが彩れば、往時の賑やかな学校らしくなるに違いない。学校跡は須くキャンプサイトにしたくなってしまう。

集落を抜け切るところで、おじいさんに声を掛けられる。
「ああ、歩いてんの、あれ」どうやらトレイルがここに通っているのはご存知らしい。「グリーンピアまで行くの?」
「もう少し先まで行けるといいのですけど」
「田老? それだと頑張らないといけないね、ははは。おれはそこまで歩けないねぇなぁ」

その言葉に歩きの距離感を把握されている感じだった。昔は歩いて集落を移動していたのだろう。

いま「車社会」と呼ばれるエリアは、数十年前まではどこに行くにも歩くしかない。むしろ健脚の方が多かったエリアだった。脚の速さが自慢の種だったと聞くにつけ、消えてしまった往来に出会いたかった。

 

宮古100km区間のトレイルは三陸の特徴をぎゅっと凝縮した様相を見せるが、宮古独特の、と思うほどの地域を抜けていく。一つは「グリーンピア三陸宮古」と呼ばれ滞在型の運動施設で、100万坪の総合リゾートエリアとある。「リゾート」と聞くと、もう少しゆったりした開放的な南国を思い出してしまうが、いずれにしてもこちとら歩く人には関係ない場所と思いつつ、テニスコート脇のトイレで顔を洗って、水を補給して、人のいない施設を満喫する。

アパラチアントレイル沿いにも「NOC(ナンタハラ・アウトドア・センター)」という施設があったことを思い出す。当日は雨で、早々と予約していてドミトリーに到着し、同室の「ベアーブリトー」君とタトゥについて話したこを思い出す。NOCにはレストランと売店もあり、利用者は広い共同キッチンも使えて、ずい、ぶんとリッチな体験ができる。

グリーンピアももう少しアウトドア層に対しての門戸が開くと良いのだけど。テニスやパターゴルフなど、どうにもバブルの余韻の残るアクティビティしか提案されないのは如何ともし難い。むしろ屋内ジムと温室プールでも作った方がよほど都会の現役サラリーマンは集まるだろうに。ついでにハイカー用のドミトリーと売店もお願いしたい。厚生年金の使い道としてはハイキングはヘルシーだろうし。

グリーンピアを過ぎると、トレイルは西に大きくと迂回してしばらく45号線近くを歩く。

本道はグリーンピアから南下するが、長らく迂回が指定されている。「迂回」というと工事でも終了すればすぐにでも復旧しそうで、うっかりしたら工事現場の脇が通れることをいくつも経験したMCTハイカーがいるだろうが、ここは大規模工事で道がすっかりなくなっているので、素直に迂回路を歩いた方がよい(前回来た時に確認済み。懲りた。)

迂回路といいつつ、ロードはそれほど車両も多くなく、道中には自然道もあり、グリーンピアを遠くに見晴らす広い展望がありと、予想外に楽しい。

そろそろ日暮れが心配になってくる。日が暮れれば海沿いは歩きたくないし、自然道も目が疲れるから避けたい。地図を確認すると、この先は海岸近くに行くとエスケープがなくなる。このあたりは凹凸の多い海岸段丘らしい地形だ。ちょうど、授業中の子供が手を挙げるようにした左手を目の前にかざし、指の間を薄く開き、中指を三時の方になるようにくるりと傾けると、海岸線が出来上がる。川が削った断崖が指の間に当たる。トレイルは小指から人差し指まで、指先付近を縦断する。道路は指の頂上を東西に通るだけで、南北に走るラインはトレイルのみだった。

〈「沼の浜」と野生〉

「沼の浜青の滝線」に出る。今やトレイルしか南北に進む手段はないが、以前は湾岸に沿って道路があった。震災と地盤沈下によって道路が崩落し、今では道の跡が波に晒されていた。

事前に潮位表を確認してあと1時間もすれば干潮だというのに、大きな波が打ち寄せると道路にぶつかって水飛沫を撒き散らしていた。遠くに見える隧道(トンネル)はまだ使えると聞いていたので、少し歩いてみる。

浜辺からどうにか道路跡に乗っかる。ギリギリまで波が足元まで押し寄せる。私と波を隔てるものは、もう機能していない道路の残骸だけだ。足を止めて大きく息を吸い込む。道路跡は、震災があった時から時が停まっているようだった。

わたしは波が怖い。濡れるのも好きじゃないし、泳ぐことも気乗りしない。眼鏡が波にさらわれてしまったら歩くこともまま成らない。溺れたことはないが、用水路になら一度だけ頭から落ちたことがある。頭が痛かっただけで、溺れはしなかった。それでも、波が高いと恐怖を覚える。正しい恐怖というのは、油断を生み出す傲慢さよりも佳き友人だ。波が打ち寄せるたびに、うっかりジャンプボタンを押してしまいそうになる。

沼の浜側に出ると、もう少し道路の跡がしっかりと窺えた。すでに復旧している道路に、軽トラックが走り去るのが見えた。人の営みだ。

野生に晒されると人間は無力だ。経験や技術が人を助けることもあるだろうが、コインの裏表を決める最後のチャンスは「謙虚」さに違いない。

 

さて、暗くなってきたことだし、店じまいをしようか。

(続く)

Text by Loon