風と空の根なし草 ——アール・シャファー、削ぎ落として歩く再生の旅

ハイキングは競技ではない。誰もが取り組むことができ、他人と比べる必要もない自然体験であり、旅のあり方。競技ではないから突出したヒーローは生まれにくい。ハイカーは誰もがそれぞれに主人公だ。とはいえ、ハイキング文化において重要な足跡を残した人物はいる。国立公園と自然保護思想の父であるジョン・ミューア、アメリカ初のナショナルシーニックトレイルであるアパラチアントレイルを提唱したベントン・マッカイ、女性初のアパラチアントレイルスルーハイカーであるエマ・ゲイトウッド、現代のULハイキングおよびロングディスタンスハイキングの潮流をうみだしたレイ・ジャーディン。彼らはとりあげられる機会も少なくないので名前を知っているハイカーも多いだろう。しかしアパラチアントレイルを最初にスルーハイクしたハイカーを知っているハイカーは多くないように思う。

彼の名前はアール・シャファー。

『Walking with spring』より(サムネイル画像含む)

自らを「風と空の根なし草」とよんだ彼のことは彼の著作『WALKING WITH SPRING』に(未邦訳)詳しい。彼のこの著作をふまえて、2014年に自身もアパラチアントレイルをスルーハイクした勝俣隆(ハイカーズデポスタッフ、トレイル研究家)がアール・シャファーを紹介します。

現在、東海自然歩道再評価の機運がハイカー間で高まりつつありますが、長年顧みられることがなかった歴史は実はアパラチアントレイルも同じです。誰かが歩くことでしか道はその姿を後世に残していけないのです。(土屋智哉)

 

風と空の根なし草 —— アール・シャファー、削ぎ落として歩く再生の旅

                               文:勝俣 Loon 隆

再生の旅:煤を落としに行く

 1948年、ジョージア州のオグルソープ山に、一人の復員兵が立っていた。名はアール・シャファー。第二次世界大戦では通信兵として太平洋の戦場を転々とし、硫黄島で最も親しい友人ウォルターを失っている。帰還後に待っていたのは、穏やかな日常ではなく、簡単には拭えない戦争の痕跡——いまならPTSDと呼ばれるものだった。 
 自分を取り戻すこと。もう一つは、戦地へ行く前に友と交わした「いつか一緒にアパラチアン・トレイル(AT)を歩こう」という約束を果たすこと。その二つを抱えて、彼は歩き出した。目的は単純で、距離は途方もない。戦争の煤を身体から落とすための、約2000マイルの旅である。

勝俣Loon隆 撮影(2014)

自然と対峙する

 彼が戦後のトラウマを抱えていたように、アパラチアン・トレイルも荒廃し、人々の心から消えていた。戦時中はトレイルを支える人々(トレイル・ピープル)が徴兵されており、戦時中に手入れを失った道は荒れ、藪は深く、踏み跡はところどころ消えていた。アールは道をたどるというより、道を探し直しながら進んだ。ATの事務局ですら「一シーズンで全線を歩き切るのは無理だろう」と考えていたくらいだ。
 当時は今ほどシェルターもなく、また彼は精巧な地図も持ち合わせていなかった。「今夜はどこで寝るのか」と聞かれると「適当なところで」と答えている。嵐に遭えば倒木の下に潜り込み、湿った地面の冷えを背中で受け止めて眠る。
 自然は恵みを与えてくれるが、同時に容赦なく彼に襲いかかる。その厳しさが、戦争で鈍くなっていた感覚を少しずつ呼び戻した。寒さ、濡れ、空腹。どれも確かに不快だが、それでも「生きている」ことははっきりしていた。深い森、抜けていく風、止まない雨。誰も相手にしてくれない時間のなかで、彼は自分の内側を点検し、ばらけていた感覚を一つずつ元の場所に戻していった。

勝俣Loon隆 撮影(2014)

装備:減らして、考える

 アールの信条は明快だった。できるだけ少なく持ち、その少ないものは吟味する。結果として、その装備は現代のウルトラライトの理念を先取りしたような簡素さになる。

【アール・シャファーの主な装備】
バックパック:軍用の古いバックパック
寝具:毛布一本(重すぎたテントは途中で送り返した)
調理器具:山岳部隊用
食料:干し肉、チーズ、ナッツ、オートミール、コーンミール、レーズン、ブラウンシュガー
その他:地図、コンパス、日記帳、鉈

 工夫も怠らない。毛布は縫い直して寝袋に変え、靴は町に出るたび修理して履き続けた。新しいものを足すのではなく、今あるものを使い切る。重さを落とす作業は、そのまま軍隊的な発想から離れていく過程でもあった。

人々との出会い

 現代でもトレイルを歩いたハイカーの多くが「人々との出会いが良かった」と口にする。初のスルーハイカーのアールも同様であったように、彼の書籍でも出会いが多く描かれている。
 伸び放題の髭のせいで、密造酒作りと間違われることもあったが、極端に簡素な格好で歩くアールは、しばしば地元の人々の助けを受けた。多くの農家は事情を聞くと、食事や寝場所を差し出してくれた。ニューハンプシャー州ホワイトマウンテンでは、山小屋のスタッフが彼の挑戦に感心し、無償で泊めただけでなく、次の小屋への紹介状まで書いてくれた。こうした「歩く人を支える」振る舞いは、やがてATに根付くワーク・フォー・ステイの文化へとつながっていく。

ロング・クルーズ(長い旅路)の終わり

 124日後、アールはメイン州、カターディン山の麓に立った。頂上を前にして、彼はこんなことを書いている。「あと一マイルで終わる。でも、この道が終わらなければいいのに」   登り切った瞬間、彼は人類で初めてATを一季で踏破した歩行者になった。その感想は意外なほど淡々としている。「ロング・クルーズは終わった。いま振り返ると、陽と影と雨の中を抜けていった、短い夢のようだ」

 彼は自分を「風と空の根なし草」と呼んだが、その後の人生はトレイルにしっかり根を下ろしたものだった。ペンシルベニアでヨーク・ハイキング・クラブを立ち上げ、週末ごとに道を直し続ける。80歳での三度目のスルーハイクでも、彼は歩きながら排水を掘り、倒木を片付けている。歩くことと、道を守ること。アールにとってその二つは、最初から分けて考えるものではなかった。

 アパラチアン・トレイルは、彼のスルーハイク後に改めて注目を浴びるようになり、少しずつであるがスルーハイカーが増えていった。もともとは、彼自身の心に積もった戦争の煤を払うための、きわめて個人的な旅だった。しかしその歩みは、結果としてトレイルの価値を可視化し、道そのものの再生にもつながっていった。いまでは毎年およそ4000人がスルーハイクに挑み、その背後には、彼らを支える6000人近くの地元の人々がいる。アパラチアン・トレイルは、そうした多くの手と時間によって育てられてきた、大きな社会的資産となっている。

勝俣Loon隆 撮影(2014)

結び

 トレイルは彼を癒やし、彼はトレイルを支えた。削ぎ落とし、歩き、手を入れる。一度失った彼自身をトレイルを歩き整備することによりアール・シャファーという人間を形づくっていく。
 いまもATを歩く者たちの中で、その感覚は静かに生き続けているだろう。

勝俣Loon隆 撮影(2014)